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山田 耕筰(やまだ こうさく、男性、1886年6月9日 - 1965年12月29日)は、日本の作曲家、指揮者。
日本語の抑揚を活かしたメロディーで多くの作品を残した。日本初の管弦楽団を造るなど日本において西洋音楽の普及に努めた。また、ニューヨークのカーネギーホールで自作の管弦楽曲を演奏、ベルリン・フィルやレニングラード・フィル等を指揮するなど国際的にも活動、欧米でも名前を知られた最初の日本人音楽家でもある。あまり知られていないが、軍歌の作曲も多く手がけている。
東京都本郷の医師でキリスト教伝道者の父の下に生まれる。少年時代、義兄の宣教師エドワード・ガントレット(”Edward Gauntlett”,1868年 1868-1956年 1956)に西洋音楽の手ほどきをうける。岡山の養忠学校や関西学院中等部、同本科中退を経て東京音楽学校予科入学、1908年、東京音楽学校(現東京藝術大学)声楽科を卒業。1910年から3年間、三菱財閥の総帥岩崎小弥太の援助を受けてドイツ・ベルリン音楽学校作曲科に留学し、マックス・ブルッフなどに学ぶ。ベルリン時代の1912年には日本人初の交響曲『かちどきと平和』を作曲した。帰国の後、1914年には岩崎が1910年に組織した東京フィルハーモニー会の管弦楽部首席指揮者を任されるが、自身の恋愛問題により岩崎が激怒し、資金源を断たれて翌年解散する羽目となる。1917年には渡米し、カーネギーホールで自作を中心にした演奏会を開く。1920年12月には帝国劇場においてリヒャルト・ワーグナーの「タンホイザー」の一部などを日本初演。1924年には近衛秀麿と共にハルビンのオーケストラ楽員と日本人楽員を交えたオーケストラの演奏会「日露交歓交響管弦楽演奏会」を主宰、これを母体に近衛と日本交響楽協会を設立。現在のNHK交響楽団の前身であるが、不明朗経理を理由に内紛が勃発。黒柳徹子の父・黒柳守綱ら4名を残し大部分の楽員は近衛と行動をともにしたため、山田派は崩壊した。

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